社会
やる!を、自分できめるって、
その子のタイミング、時期があるんだなあということを、先日のうんどうかいを見て感じます。
昨年までは、「やりたくないよ~」といって周辺で見ながら参加していたけれど、
今年は、「まけないから!」と、競技に張り切って出ていました。
おとなが「やってみたら?」と声をかけたり、おともだちに「やろうよ」とさそわれても、
「じぶんはやりたくない。やろうとおもうけど、いろいろ考えたら・・・まだ、やりたくないんだよな」っていう、
じぶんなりの理由がちゃ~んとあるんですよね。
おとな側の気持ちのなかには、
「みんなとやれなくて、だいじょうぶかしら」「これって、いいのかしら?」とかいう気持ちも、もやもやしてくると思います。
そんなもやもやが出て来る時は、ちょっと、じぶんのこども時代をおもいだしてみると、いいんじゃないかなと思います。
たとえば、わたしなんかは、授業のときに「てをあげられない」こどもでした。
その時の心境は「こたえはこうだと思う。でも、わたしが、てをあげてこたえたら、みんなどうおもうかな・・ドキドキする。どうしよう。いつもせんせい、てをあげてないひとはだれ?って言ってるから、答えわかってるからあげようかなどうしよう」って、
じぶんとめっちゃむきあってたんですね~今、思うと。
こども時代ほど、こうやって、「今、じぶんは・・」とむきあっているんじゃないかな。
そうやって「じぶん」の気持ちを守って、「じぶん」の気持ちを見ている感じがします。
こどもは、じぶんの世界で生きているからかなあ。
おとなになると、社会に身を置くことで「じぶんとむきあう」ことより、「環境、まわり」へ、問題を投げちゃうとことが出てきます。
いろいろ知恵がついちゃうからかしら?(笑)
そう考えたら、おとなよりこどものほうが、おとな!じゃん。
だから、
児童文学者のケストナーは「かつてじぶんがこどもだったころをわすれないでください」って言っていたのかな。
まずは、じぶんとむきあう。
それが「社会」のなかで生きるときのちからになるのです。
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